2009年5月11日月曜日

■無趣味のすすめ

村上龍さんの「無趣味のすすめ」を読む。月刊誌「ゲーテ」(幻冬舎)で掲載されているコラムをまとめたもの。コラムはほぼ毎月チェックしているので、ほとんど一度読んだことがある内容だが、以下、創刊号で掲載された「無趣味のすすめ」(本のタイトルでもある)はグッとくる文章だ。趣味なんて、まだまだ、いらないね。当然、自分にとって「サッカー」は決して趣味ではない。

■無趣味のすすめ
 まわりを見ると、趣味が花盛りだ。手芸、山歩き、ガーデニング、パソコン、料理、スポーツ、ペットの飼育や訓練など、ありとあらゆる趣味の情報が愛好者向けに、また初心者向けに紹介される。趣味が悪いわけではない。だが基本的に趣味は老人のものだ。好きで好きでたまらない何かに没頭する子どもや若者は、いずれ自然にプロを目指すだろう。 老人はいい意味でも悪い意味でも既得権益を持っている。獲得してきた知識や技術、それに資産や人的ネットワークなどで、彼らは自然にそれらを守ろうとする。だから自分の世界を意図的に、また無謀に拡大して不慣れな環境や他者と遭遇することを避ける傾向がある。 わたしは趣味を持っていない。小説はもちろん、映画制作も、キューバ音楽のプロデュースも、メールマガジンの編集発行も、金銭のやりとりや契約や批判が発生する「仕事」だ。息抜きとしては、犬と散歩したり、スポーツジムで泳いだり、海外のリゾートのプールサイドで読書したりスパで疲れを取ったりするが、とても趣味とは言えない。 現在まわりに溢れている「趣味」は、必ずその人が属す共同体の内部にあり、洗練されていて、極めて安全なものだ。考え方や生き方をリアルに考え直し、ときには変えてしまうというようなものではない。だから趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。 
つまり、それらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。


刺激的なコラム。実は、このコラムをパクッて色々な所で喋ってました…。
 

■追伸
昔の上司と小一時間新橋でビールを飲んだ。5~6年ぶりくらいかな。当時、自分は入社3年目のぺーぺー社員で、彼は部長だった。弊社には珍しい、自由な感じの部長だった。自分の企画もほとんど、ノーチェックだったし、海外出張も、わけもわからず2~3回行かせてもらった。部長は部長で、よく、デスクで自分の執筆活動とか、講師をしている大学の講義資料を作ってた。その時は、結構いい加減なひとだなぁと思ったけど、今思うと、色んな事を教わった気がする。何年か前に、会社を辞めて独立したことを聞いた。先日偶然会社であって、再会を約束。今日は、昔話少々、今のメディア事情、弊社の今後など話をした。昔世話になった云々ではなく、また、一緒に素敵な仕事が出来ればと思う。それは、自分がつくるんだ。

【所要時間:30分】