2013年1月26日土曜日

■「音楽-体楽」


昨日の日経記事。納得させられる。
一連の事件で、スポーツの価値が下がることが恐いです。

--------
■体育が「体楽」だったら  武智幸徳
体罰を頭から否定するわけではない。みんなで決めたルールを平気で破られたとか、人として許されないことをしでかされたときに、思わず手が出た、ということは実際問題としてあるだろう。
 残念なのは、一般の社会では許されないことが学校では許され、教室ではとても許されないことがスポーツ指導の場では許される、という具合に順々にハードルが下がっていくことだ。スポーツは「体で覚える」ものだから、愛のムチという名の体罰もときには「あり」だと、いまだに特別視されているのだろうか。
 「スポーツだから」と大目に見られることが、いい方向に働くことはある。昔の日中間のようにあらゆるルートが閉ざされているときにピンポン外交が重要な役割を果たしたのは好例だろう。しかし、体罰のようなものまで許していたら、特殊な世界と色眼鏡で見られることも、いつまでたっても終わらないだろう。
 本来、スポーツに体罰は最も似合わない気がする。罰というからには罪が先にあるはずだが、スポーツで罰せられるものがあるとしたらフェアプレー精神を著しく欠いた行為くらいだろう。相手を故意に傷つける、試合にわざと負ける、審判の目を欺くといった、スポーツをスポーツでなくするような行為である。
 それ以外のことは、特にアマチュアなら試合に負けることも、練習してうまくならないことも、覇気がない(ように見える)ことも、何一つ罰に値しないように思う。
 技能の伸長には著しく個人差や個体差がある。やる気がないように見えても、それは選手の内燃機関に火がついていないからかもしれない。コーチとはそんな選手の心に火をつけ、燃えるものをくべる人のことだが、それがムチをふるわないとできないのであれば、あまりに悲しい。
 5年前に亡くなられた元日本サッカー協会会長の長沼健さんは、メキシコ五輪銅メダルに輝く名伯楽だった。記者として駆け出しのころに言われたことがある。
 「ミュージックを『音楽』と訳した人ってすごいよね。スポーツも体育ではなく『体楽』と訳されて日本に紹介されていたら、今とは違ったものになっていたんじゃないかな……」
 体罰なんか、息をする場所もなかったのかもしれない。
----------------日経電子版

【所要時間:10分】
インフルエンザ、ノロも恐い。