2010年4月1日木曜日

■負けるということ

以下、日本経済新聞のスポーツ欄の豊田泰光氏のコラム「チェンジアップ」。(カズのコラムも好きだが、豊田氏のコラムも毎回面白い。) 勝負の世界は厳しい。勝ち負けの二元論。ただ、それだけではないsomethingがあると思う。

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<負けを受け入れよう >

選抜高校野球で「21世紀枠の高校に負けるのは末代までの恥」という島根・開星高の監督の発言があった。責任を取って辞任したが、当事者一人が身を引いて終わり、というほど事は単純ではない。  発言は絶対的な力量差を前提としていた。同じ高校生が戦うのにあり得ないことだ。野球に特化し、業者化した一部の高校の存在が、場違いなプロフェッショナリズムを甲子園にもたらしている。 野球に限らず、負けを受け入れるところにスポーツの第一歩があるのではないか。 負けを認めると、まず謙虚になれる。私はプロで新人王になり、てんぐになりかけたとき、南海の杉浦投手に鼻ッ柱をへしおられた。どんな投手でも打てると思い始めたところに、手も足も出ないと思わせる投手が出てきた。 こりゃ打てん、と高慢な気持ちを改め、腰を低くしてみると、杉浦にも調子が悪い日がある、ということが見え出し、10回に1回くらいは打てるようになった。自信満々でいたときは自分の不出来に動転するあまり、相手を観察できていなかったのだろう。 負けを認めると、他者という存在を認めることができるようになる。あの監督の発言には一人で責任を負い過ぎたという問題もあった。戦うのは選手、という原点を忘れていた。監督が野球をやる、チームは監督のもの、という監督絶対論がまだプロ、アマ双方に巣くっている。それはチームの私物化だ。 巨人の川上監督は最も負けを嫌った監督だろうが、負けを受け入れていた。私に巨人移籍の話が持ち上がり、会食したときのこと。最初だからと神妙にしていると「君は酒は飲まんのかね。酒も適量ならいいものだよ。嫌なことを忘れられて、よく眠れる」。負けを認め、人間の弱さを知る人の言葉だった。 こんなくだけた面があったのかと意外だったが、思えば堅物なだけでいいなら、監督などだれでもできるのだ。王国に君臨するかのごとき指導者は完全無欠であろうとし、そこに無理が生じる。「まあ、いいか」と他人も自分も許しながらやらないと、人生が窮屈になる。

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新入社員が入ってきた。
今どきの学生って忙しそうだなと思う
→さとなおさんのブログより