2011年4月2日土曜日

■「スポーツの語源と役割」

昨日の日経朝刊に以下のような記事が掲載されていた。以前ブログに転載させて頂いたセルジオ越後氏の意見同様に、個人的には何でもかんでも自粛することに抵抗感がある。それは、お前が被災者じゃないからだろ!と言われると、それまでなのだが、日本全体が閉塞感につつまれ、経済が停滞していくこと、子供の笑顔が無くなることが恐い。「そんな中でのスポーツの役割、確実にある。」って、俺みたいにスポーツの世界にどっぷり浸かっている人間ではない人が、そう思ってくれるような活動をしなければいけないと思う。

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【アナザービュー】自粛は萎縮生むだけ
武智幸徳 4月1日 日本経済新聞 朝刊

カズこと三浦知良(横浜FC)のゴールに熱狂した3月29日の慈善試合の翌日、甲子園球場を訪ねた。高校球児の白球を追う姿、ビールを売る娘さんの掛け声、毛布をヒザに置いた親子連れ。そこだけ切り取ればのどかな外野席の午後。
いつもと同じ場所で同じものが変わらぬ姿であることのありがたさをしみじみと感じた。
試合に没入することはなかなかできなかった。目はプレーを追っても頭の中のもやもやが晴れない。そもそもそこにいること自体がどこか後ろめたい。「こんなところで野球を見ている場合か」という声が聞こえてきそうな気がする。
スポーツという言葉の語源には諸説あるが、個人的には「disport」=「離れる」という意味の接頭語disとport(港)の組み合わせ=という説を好んでいる。港はおそらく「日常」と置き換えてもいいのだろう。スポーツとは日々のストレスという岸から離れ、つかの間でも解放されたような気分を味わう装置なのだと。 あるいは港とはさまざまな屈託を抱えた「自分」かもしれない。普段はめったに出さないような大きな声を上げ、思わず我を忘れさせるスポーツの力は、人間性の回復に資するものでもある。
東日本を襲った地震と津波はその戻るべき港を粉々にした。プロ野球の選手たちが今季の開幕を遅らせるように切望したのも、29日の慈善試合でサッカー選手たちが「こんな時にやっていいのか迷った」と口々に語ったのも、“港”を修復することが何よりも先と感じたからだろう。戻るべき港もないまま離岸させるなんて無理と、不安を覚えるのは当たり前だ。
しかし、慈善試合でゴールした後、なじみのダンスではじけるカズを見ながら、過度の後ろめたさは何も生まないとも感じた。社会に目を配るのは素晴らしいことだが、試合では躍動することが選手の本分なのだと。見たいのはそこだと。 どうせやるなら、負い目や引け目を振り払い、世間の自粛ムードに風穴を開けるくらいの覚悟でやればいいのかもしれない。自粛は萎縮につながる。とどまる必要のない船を港から引っ張り出すのもスポーツの役目だ。
--------------(日経電子版、便利です。)


そんな中で、今年の早慶戦定期戦は6月29日(水)@国立競技場ナイターの予定である。さて、どうしたものか…。

【所要時間:20分】
石川遼の賞金全額寄付(米国での評価が一気に上がったらしい)はカッコ良過ぎ。俺の中で、一気にKING KAZUに並んだ。これで日本全国民が石川遼を応援する仕組みができてしまった。
あと、暁星林監督も動いたようです。教育委員会を恐れずに生徒を巻き込んだ地上戦、林さんらしいと言っては失礼ですが、さすがです。